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No.44 ママトーク・禁煙サポートに取り組む医師・高橋裕子さん

No.44 ママトーク・禁煙サポートに取り組む医師・高橋裕子さん

20年以上前に禁煙外来を始めた高橋裕子さん(62)。喫煙をやめられない子どもたちの支援にもあたってきました。インターネットで支え合う「禁煙マラソン」も主宰しています。高橋先生も、3人のママ。各地の病院でキャリアを積みながら、「毎日が闘い」「綱渡り」という子育て期を経験しました。
 
―小さいときからドクターを目指したのですね。
「小学生のとき、医師になりたいと思いました。地元の奈良では、自宅への往診がふつうだったんです。母が病気になって、ドクターが来て、治る様子がはっきりわかる。京都大医学部に入り、男子学生の多さにびっくりしつつ、医師になるための厳しいトレーニングを受け、部活もエンジョイしました」
 
「小児科にもひかれたのですが、総合的なケアができればと思い内科に進みました。研修医として出た先の病院に、消化器内科のいい先生がいて、胃腸を専門にするように。京大の大学院に戻り、胃の内視鏡で手術ができる最先端の技術に夢中になりました。医師として2年目の26歳のとき結婚しました」
 
―どのように子育てしたのですか。
「30歳のとき、長男を出産してすぐ復帰しました。この病院には、保育室がありました。その後、奈良の病院に転勤。夫は単身赴任で、週末しか帰りません。子育て中の同僚ナースから申し出があり、交代で保育園にお迎えに行ってくれるように。夜の9時~10時ごろ、私がそのお宅へお迎え。別の病院に転勤してからも、このナースたちが引き続き協力してくれました」
 
「長男が小学生になると、お留守番できるようになりました。家政婦さんと相性が合わなかったようで、家事は自分たちでやっています。長男は小2から自分で料理していますよ。それでも私が夜に電話で呼び出されると、行かんといてーって言われました。子どもの病気のときは、職場に言いにくくて、私自身が高熱ということにして休んだ日もあります」
 
「38歳のとき、2人目を出産。産休育休の制度ができ始めたのですが、1人目のときも産後すぐに働いていたし、2カ月から保育園に預けてフルタイムに。近くに、夜中まで預かってくれる保育園ができて、園長先生もいい人だった。子どもにアレルギーがあり、母乳のために私も食事を制限。無理がたたって慢性関節リウマチになってしまいました」
 
「症状はどんどん進み、指が動かなくなりました。3キロの内視鏡が抱えられない。ひざも悪くなり、車いすで回診。同僚の主治医に無理と言われ、患者さんに心配され…。3カ月、お休みして寝たきり。患者としての体験がターニングポイントになりました」
 
「毎日、天井を見ているだけ。主治医に遠慮して、検査のデータが聞きたくても聞けない。この薬は飲みたくないとも言えませんでした。復帰できたら、患者さんの話をしっかり聞く医師になろうと思いました」
 
―なぜ禁煙治療の道に進んだのですか。
「消化器にかかわっていたころは、禁煙なんて考えもしませんでした。仕事に復帰して、糖尿病の専門医に変わりました。糖尿病は、患者さんの話をしっかり聞く必要があると思ったからです。学生のころ、糖尿病の子どもたちのキャンプをお手伝いしてかかわりがありました。当時は80年代の終わりごろ。吸うと太らないと信じて、糖尿病の十代の子が喫煙していました。タバコを吸うと進行が早く、悪化します。やめないと大変なことになると脅しても効果がありません」
 
「一方、大人の患者さんで、タバコをやめられる人も出てきました。ある日、おとなしい屋根職人さんが診察室に入ってきて、禁煙できましたというのです。どうやってやめたか聞くと、氷を保冷水筒につめて、吸いたくなったら口に入れるとまぎれたそう。能率も上がり、家族も喜んでいると、自分から生き生き話している。禁煙って、人が変わるんだ。喜んでもらえるなら、ほかの喫煙者の禁煙のお手伝いもしたいと思いました」
 
―3人目のお子さんの成長とともに、禁煙外来やメールの支え合いに取り組みましたね。
「それまでの大きな病院から、中規模の公立病院に転勤しました。大きな病院では外来が夕方まで続きますが、転勤した先では外来は午前に終わります。午後に空く診察室を使って禁煙外来を始めました。42歳のとき、3人目を妊娠。このときは、産前産後の休みはドクターでも当たり前になっていたので、しっかり休みました。オーストラリアに視察に行き、禁煙のパンフレットを翻訳した冊子を外来で渡すようにしました」
 
「新聞で紹介されるなど、患者が増え、週に1日だけだった禁煙外来を週5日にしました。冊子の希望が3万通以上もあって。インターネットが始まったころで、ホームページに載せると、吸ってしまう、夜中に吸いたくなるなど、メールが届くように。一斉に助言できるメーリングリストにし、200人が集まりました。禁煙マラソンのスタートです。最初の1カ月は、私が3人目の子をゆりかごに寝せ、徹夜で返事をしていました。2カ月目には、参加者同士で『水を飲むといい』など助言しあう仕組みが生まれ、ピアサポート(仲間の支えあい)は今でも続いています」
 
―子どもの禁煙外来も始めました。
「禁煙マラソンは、あまりに大変でやめようと思ったのですが、禁煙した1期生から『支え合いは楽しい。続けて』と声が上がりました。ITの専門家や会社の役員もいて、運営を引き受けてくれました。医師からだと上からの助言になるので、仲間からの励ましのほうが評判がいい。パパに禁煙してほしい、というお子さんからの相談もあります」
 
「病院でも、午前中は内科、午後は禁煙外来と診察を続けていました。奈良女子大の保健センターに赴任し、子どもの禁煙外来を始めました。県に働きかけ、学校から保健所、私のところへとつないでもらう仕組みに。多いときは、8~18歳の子が年に60~80人は来ました。2013年からは県の予算がつき、他のドクターも子どもの禁煙治療にかかわれるようになりました」
 
―3人目のお子さんが19歳になり、仕事と子育てを振り返っていかがですか。
「私は医師ですが、小さいときに病気をすると、死んじゃったらどうしようと不安でした。アレルギーもあったので、保育園に昼夜ぶんのお弁当を持たせて。子連れで出張したり、思春期には学校から呼び出されたり。毎日が綱渡りでしたね。長男が成人したとき、夜中に呼ばれて飛び出す医師にはなりたくないと言われましたが…。ママ業も少なくなったので、今年からは、自分のやりたいことにも取り組もうと思っています」
 
「先は必ず楽になります。10年後を思い描き、希望を持ちましょう。助けてくれる人、元気に育っていることに、感謝を忘れないで下さい」
 
禁煙マラソンの情報はhttps://kinen-marathon.jp/で。高橋先生は現在、京大病院で禁煙外来の担当をしています。
(なかの・かおり 39歳で初産。会社員生活は21年目になりました)